いざ還りなん | 72.0×60.0 | 1995 | ☆ |
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われわれは、戦争が終わって帰国できるとばかり思って、担げるだけの荷物を背負って「ダモイ東京」と急き立てるソ連兵の言葉を疑わす、「敦化」の地を後にした。しかし、「液河」について、身ぐるみ剥がされ防寒服が支給されて容易ならざるを知った。
避難民 | 162.1×130.3 | 1991 | ★ |
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この絵は、牡丹江の南にある景勝の地「鏡泊湖」の山中を、豪雨に打たれながら南に向かって避難してゆく人たちの姿だ。馬上の人は老人で刀を腰に指していた。われわれはこの人たちに手を貸すことも出来ず、やがて牡丹江を突破してくるであろうソ連軍を隘路口で迎撃するための陣地作りに先を急いだ。残留孤児には「寧安」の人たちが多い。
行方も知れず | 72.8×60.6 | 1987 | ☆ |
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貨車の中は丸太を並べた2段ペットになっていて30人ほど向かい合って詰め込まれた。ストーブはあっても便器はなく小用の穴が開けられているだけだ。名も知らない駅に止まると貨車の下にもぐりこみ糞をたれ飲み水を探す。行方も知らない旅であった。
西欧の難民たち | 60.6×50.5 | 1998 | ☆ |
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われわれ抑留者を乗せた貨車が止まった駅の名前は知らないが、小さな駅ではなかった。そこで目にしたのは欧州から運ばれてきた敵国の民間人たちで、老人や女子供たちは監視兵に何かを求めて叫んでいた。厳重に監視された異様な光景であった。
軍靴 | 72.8×60.6 | 1978 | ★ |
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シベリアの冬は編上靴では過ごせない。もうこの靴ともおさらばだ。国境守備の原隊から教育隊に入隊するときに履いてきた靴だ。それでもこのぼろ靴は、教育隊の厳しい演習にも耐え、戦場を駈けめぐった。足の甲をさすりながらぼろぼろになった編上靴を見ていると、満州の山野をさまよい歩いたときのことが、走馬灯のように思い出されてくる。暗い土間にぬぎ捨てられた編上靴が、なんともいとおしくなってくる。ワーリンキを履けば、明日からはもう日本の兵隊の姿ではなくなるのだ。
果てしなき道 | 60.6×50.0 | 1999 | ★ |
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シベリア第二鉄道の中間地点から先は、レールが取り外されていて路盤は荒れ果てたまま放置されていた。その路盤に並行して雪の道路が北に向かって果てしなく続いている。
タイガ(針葉樹大森林)を拓いた絶望の道を突っ走るトラックには監視兵が目を光らせ寒さに震える日本兵を嘲り、罵った。
重なって寝る | 60.6×50.0 | 1998 | ★ |
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名の知らぬ収容所についたところで降ろされたわれわれは、廃墟のような収容所に降り積もった雪かきをして、飢えと寒さの中に身を寄せ合い重なって寝るよりほかに仕方がなかった。暖房はあっても隙間だらけの舎内は身を切るような寒さだ。小便から帰ってくるともぐりこむのに一苦労するありさまだった。
点呼 | 45.5×38.0 | 1978 | 鶴岡資料館 |
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深夜の点呼はソ連兵の嫌がらせだ。空腹に耐えながら眠りに就こうとするとき「点呼ォ所持品を持って集合ォ」の声がかかる。凍てつく満天にきらめく北斗星をあおぎながら、ながながとつづく点呼の終わるのを待った。何度も数合わせを繰り返す間に、ソ連兵は病気の兵だけになった舎内を引っかき回し、武器捜と称して時計や貴重品をあさった。
強制収容所の中 | 53.0×45.5 | 1992 | ☆ |
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丸太を並べ藁を敷いた二段の床を四方に巡らした収容所には200名ほどの日本兵が重なるようにして生活をしていた。中央にストーブ二つが取り付けられており、もちろん電気はなく、白樺の皮を燃やして灯りにした。そしてわれわれは虱と南京虫と闘った。
雪のラーゲリ | 41.0×31.8 | 1978 | ☆ |
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収容所は、高さ5mほどの木の柵をはさんで鉄条網が二重に張り巡らされていた。柵の角には望楼がたち絶えず狙撃銃を持った兵士が監視していた。深夜、雪をとるため柵に近づき撃たれて死んだ戦友もいた。門は衛兵所の監視兵に護られていた。
ラーゲリ風景 | 72.0×60.6 | 1994 | ☆ |
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ラーゲリの外には鍛冶屋、馬小屋、カントーラ(計算事務所)、監視兵宿舎や所長官舎などがあった。朝と夕方は出入りがあって賑やかだったが、日中のラーゲリはもの静かで、凍った糞をカマスに詰め運び出す者や、水汲みの馬車が出這入りするぐらいであった。
ダバイ・ブイストラ | 65.2×53.0 | 1978 | ★ |
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監視兵はわれわれの後ろについて監視を怠らなかった。雪と氷の白一色の道を歩いていると凍った馬糞がまさに馬鈴薯に見えるのだから不思議だ。思わず立ち止まって拾おうとかると、ダバイダバイ・スカレー(そらそらぼやぼやするな 急げ)と急きたてるのであった。
ダバイ・ヤポンスキー | 72.0×60.0 | 1986 | 個人蔵 |
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思いもしなかったシベリアのラーゲリに放り込まれ、飢えと寒さに生きる気力を失った日本兵に、「この鉄道でお前らはトウキョウに帰れるのだぞ」と動きの鈍いヤポンスキーにハッパをかけるのであった。荒れた路盤を目にして日本兵は絶望した。
零下30度 | 53.0×45.5 | 2002 | ☆ |
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零下30度になると、その日の作業は休みになる。しかし、気温が上がってくると待ってましたとばかり労働に駆り出された。飢と寒さには勝てず、監視の目を盗んでは焚火を囲み時の過ぎるのを待つのであった。防寒服に火ついているのも知らずに。
伐採 | 65.2×53.0 | 1978 | ★ |
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シベリア抑留者の多くは伐採の体験を持っている。抑留生活に欠かせない仕事だからだ。伐採は冬の仕事だ。まずは雪かきから始め、樹の根元から切り倒す。上から切り落とすと監督は、資源が無駄だと烈火のごとく怒るのだ。誤まって樹の下敷きになり骨折する者も少なくなかった。枝を払い燃やすのも一仕事だ。
焚き火 | 65.2×53.0 | 1998 | ☆ |
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シベリアで火のけがなかったら生きられない。飢えと寒さの中での労働では先ずは焚火から始め、焚火に終わる。仲間たちとの憩いの場所でもあるのだ。話すことは食べ物のことと、国に帰ることばかりだ。女の話など出ることはない。ロシア娘との話もあったと聞くが、特別な仕事に就いていた者たちのことであまり信用はできない。
きらめく北斗星の下に | 53.0×40.9 | 1997 | ★ |
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シベリアの極寒の空はうつくしい。きらめく星座は虜囚の身を忘れさせ幽玄の世界に誘うのであった。「空を切って走る刹那の流星は、万古の静寂破って、あたかもはじけるような響きが聞こえるようであった。」八木春雄著『抑留記上(未決拘留十一年)』より
この星空も祖国の空を巡ってゆくのであろうと思うと深い郷愁にかられるのであった。
材木運搬 | 41.0×31.8 | 1978 | ☆ |
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材木運搬は冬の仕事だ。伐採地が遠くなるとノルマが上がらなくなった。馬の善し悪しがノルマに影響するので馬当の機嫌をとらなければならない。橇に丸太を3本積み起伏のある雪道を下りようやく集積所につくと陽は沈もうとしていた。
屋根のコッパ作り | 53.0×45.5 | 1995 | ☆ |
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屋根を葺くコッパ作りは、真冬の夜間作業として行われた。大きな鉋を棒の先に取り付け、台に固定したブロック状に成形した木材を薄い板状にしごいて作るのである。この仕事は体力を消耗するだけでノルマは上がらず泣きたいほど辛い仕事だった。
赤鼻の所長 | 41.0×31.8 | 1978 | ☆ |
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このラーゲリの所長の階級は少佐だ。独ソ戦のときドイツの捕虜となり、ソ連軍に救い出された経歴があり、日本人のわれわれには同情してかあまり厳しくはなかった。しかし、中尉の党員には頭が上がらず、コンプレックスを感じないわけにはいかなかった。ソ連も自軍の捕虜には厳しくその烙印は終生ついてまわる運命を負わされていた。
路盤工事 | 116.7×90.9 | 1998 | ☆ |
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一輪車で運ぶ土の量など知れたもので、荒れた路盤を直すのに何年かかるかわからない。囚人あがりの監督もその日その日を暮らせればハラショーだと、彼らの上役が見に来ない限り日本兵に辛く当るようなことはしなかった。彼らも心得たものだった。
薪運び | 38.0×27.0 | 1978 | ☆ |
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収容所に入ると先ずは柵づくりだ。それが終わると薪運びだが、二人で運べる薪を何人もかかって運ぶ日本兵を、監視兵は罵った。「ダバイ・スカレー・ヨッポイマーチ」と繰り返し、なかには蹴飛ばすものさえいた。最初のひと冬で一割の兵が死んだ。
黒パンと鮭 | 53.0×45.5 | 1980 | ★ |
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黒パンは翌日の昼飯で、一切れの鮭と飯ごうの中の塩水のようなスープが夕食として配られる。黒パンを翌日まで持ちこたえることはまずできない。盗まれるかもしれないし抱いて寝るわけにもいかない。夕食が貧しいので食べてしまうのが習わしだった。野菜のない冬には、樅の葉を大鍋で煮つめ、ビタミンの欠乏を補った。
お湯だけの昼飯 | 41.0×31.8 | 1978 | ★ |
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昼食は昨夜もらった、薄っぺらな塩鮭だけだ。一緒にもらったマッチ箱ほどの黒パンは空腹をこらえきれずに昨夜のうちに食べてしまった。時間をかけて塩鮭をしゃぶり、骨はガラスのように透き通るまで煮込んでから僅かな歯ごたえを楽しんだ。捕虜たちは馬食用の岩塩を雪で溶かし空腹を紛らわせるので貌がムクンデくるのであった。
すさむ仲間 | 65.2×53.0 | 1996 | ☆ |
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仲間たちは段々理性を失い、荒んできた。時にはパンを盗まれたり、飯ごうが消えうせたりして、争いが絶えなかった。翌日の昼飯用に配給された僅かなパンも食べてしまわなければならない。週一回配られる小匙一杯の砂糖も煙草かパンに換えてしまった。
雪の埋葬 | 145.5×112.1 | 1978 | ★ |
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墓掘りの仕事は弱兵の仕事だ。冬の墓掘りは薪を炊いては凍土を溶かしとかしして穴を掘るのだがはかどらない。浅く掘った申し訳程度の墓穴に裸のまま埋葬しあとは雪で覆ってしまう。
雪分けてはふりし戦友の新墓の新盛土に又つもる雪
<本田森造(元陸軍大佐・野戦重砲兵17聯隊の部隊長で歌人)この歌は昭和万葉集所収。>
カルトーシカ | 41.0×31.8 | 1978 | 個人蔵 |
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シベリアの馬は小さい。しかし力があってずるがしこい。その馬の凍った糞が馬鈴薯にそっくりだ。シベリアの芋は小さく形も色も馬糞と変わらない。飢えた捕虜にはそっくりに見える。「マロードや煮てみてわかる馬糞かな」
ノーチ・ラボート | 72.0×60.6 | 1988 | ★ |
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夜間作業は最も辛い仕事だ。バラスや枕木の積み下ろしなどだ。ロシアの貨車は戦車を運ぶように出来ているので大きい。仕事が終わると後は焚火にあたって、夜明けを待つばかりだが、監督は見にもこない。大豆をバラ積みした荷降ろしはハラショーだった。
女医と捕虜 | 100.0×80.3 | 1986 | ☆ |
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かつてのロシアの女医は花のように美しかった。力量は日本の看護婦程度で、衛生環境を良くすることを主な仕事としていた。仮病によるサボタージを防止する役目もあったようだ。熱発の患者や細った者には優しく、神経痛やうつ病などは認めなかった。
仲間(眼鏡の兵隊) | 72.8×60.6 | 1978 | ★ |
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こわれた眼鏡を、医務室からもらってきた包帯と絆創膏でつくろった。ペチカの上にのせた飯盒が心配でならない。暗がりの中から、じっと見つめる一ッ目は一点を睨んで動かない。昨日作業場で眼鏡を壊したときの彼のあわてようと、落胆ぶりは戦友たちをおどろかせた。彼は二年上の学徒兵と同じ年輩だったが、極度の近眼で遅れて入隊した。 壊れた眼鏡でもなんとか見えるようになったので、彼はもとの落ちつきと平静さをとりもどした。目が見えないでこのさきをどうして生きていくのか、一時は彼の憔悴ぶりははなはだしかった。
バーニア(浴室) | 60.6×50.0 | 1988 | 不明 |
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シベリアに入って半年も過ぎたころ週一回の入浴が出来るようになった。天井に吊るされたランプはもうもうとたちこむる湯気で薄暗く、小桶一杯の湯で垢を拭きとり十分足らずの入浴は終わる。まさにカラスの行水だが、虱退治に脇毛や陰毛は擦り落とされさっぱりとして次の仲間たちと交代する。湯船に浸ってというわけにはゆかない。
二人づつ運ぶ | 53.0×45.5 | 1989 | ☆ |
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私は、伐採地から材木を橇で運ぶ御者(馬子)だったが、死体を運んだ経験はない。7万人ちかい死者を運んだ者は居ったはずだし、抑留を体験した者の中にはその経験を持つ者の記録が少なくない。<一人死に二人づつ橇にて運ぶ>と詠んだ俳人がいる。
G病院 | 45.5×38.0 | 2000 | ☆ |
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病院は肺結核や栄養失調などに加えて、凍傷や伐採で骨折した患者で溢れた。傷ついた骨折者でもかまわずギプスをはめるので夏になるとギプスの穴からウジが湧きその匂いには閉口した。痰つぼをひっくり返す重症の内科病棟にはいたたまれず、1月もたたないのに作業大隊に逃げ出してしまった。
解剖室 | 53.0×45.5 | 1995 | ☆ |
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囚人が死ぬと必ず解剖する習わしがあるらしい。脱走を防ぐのが主な目的で、医学的に解剖するわけではないらしい。腹を割き後は太い縫い針で閉じ解剖は終わる。後はバケツにたまった血を捨てる役目と、死体処理を待つばかりだ。
水汲み | 60.0×50.0 | 1985 | 不明 |
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極寒のシベリアは、水が貴重品だ。厚く凍りついた川に穴をあけ樽一杯に水を汲み収容所まで何回か往復するのだが、ロシア人の集落にくるとバケツを持ったロシアの女性に分け与えなければならない。しかし、代わりにパンや煙草にありつける特権がある。昼になるとわれわれに配る昼のスープを運ぶのも仕事のうちだ。
枕木運搬 | 41.0×31.8 | 1978 | ☆ |
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これは辛い仕事だ。枕木は重くノルマは見ての通り、誤魔化すことはできなかった。これこそ腹のすく仕事で、二人の呼吸が合わないと仕事が進まない。体力のあるほうが後ろになるのだが、交代のできる相棒を探さないと体がもたない仕事だった。
二冬を越した捕虜 | 65.2×53.0 | 1980 | ☆ |
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作業大隊で、伐採や材木運搬、路盤工事など柵外の労働に駆り出された仲間たちは、二冬を越すと痩せ細り栄養失調ぎみになり、事故が相次いだ。特にバラス降ろしなど夜間作業についた者は老人のような容貌になる。初めの冬の死亡者の数は五万にも達したと言われており、尻の肉が落ち肛門が見えるほどだったという報告もある。
シベリア大工 | 60.6×50.0 | 2002 | ☆ |
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シベリア大工の道具は鋸と斧と金槌と丸太の梃子棒ぐらいで鑿や鉋などはなかった。やがて鍛冶屋が出来ていろいろな道具がつくられ、まともな建物や家具などが作られるようになった。
材木集積所 | 145.5×112.1 | 1998 | ☆ |
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ここでの仕事は丸太と綱と人力が道具だ。監視兵は見ているだけでのんびりしたものだ。冬運んできた材木を積み上げる仕事だが、製材所に運ぶまでの数合わせと、伐採した量と材木を運搬した数を確めるのだが、リューベの数字が多くなることはない。
日の丸をかぶる娘 | 65.2×53.0 | 1982 | ★ |
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寄せ書きのある日の丸を、彼女たちは好んでネッカチーフにした。長年の戦争で疲弊していたソ連ならではのことだったが、ソ連兵から貰ったものに違いない。パンや煙草と交換したという話は聞かなかった。
望郷 | 60.5×50.0 | 1980 | ☆ |
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カンボーイ(監視兵)たちにも遠き故郷を思わずにはいられないようだった。われわれの作業をじっと視ているだけの彼らにも、故郷に残してきた彼女のことや両親たちのことを思い出しているのであろう。歩哨長のトカレフという赤ら貌の軍曹は、エセーニンの詩句をいつくか暗記していて、韻をふくんで口ずさんで見せた。(加藤九祚『シベリア記』より)
第二鉄道の夏 | 53.0×40.9 | 1995 | ☆ |
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緑輝くシベリアの大地は、荒々しい雪の荒野とは異なり別天地だ。22年の夏にはわれわれの努力によって、材木で走る蒸気機関車がよろよろと走るようになった。この汽車に乗り東京ダモイもかなうかもしれないと思うようになった。鉄道作業隊は貨車に乗って生活しながらレールを敷いて行く。かつて相棒だったS君と再会したのは感激だった。
吊し上げ | 41.0×31.8 | 1977 | ★ |
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民主運動は、22年の夏ごろから激しくなった。21年の冬には将校排除の兆候が見られ、前にいたラーゲリからO軍医とM主計大尉が転属してきた。22年の最終船で帰国する時のナホトカでは主義者が幅をきかせ、「帰国させないぞ」などと吊るし上げるのが見られた。
望郷の花 | 60.6×50.0 | 1984 | ★ |
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ひまわりはロシア人たちが住む小さな家庭菜園に、必ずと言ってよいほど植えられ、南をむいて咲いていた。ひまわりの種は彼らの貴重な栄養源でもあった。口の中で巧みに種の皮をはき出しては実を食べていた。われわれにとって、南をむいて咲く大輪の花は望郷の花であった。 ひまわりは吾よりも高く柵よりも低し
主義者と兵隊 | 100.4×80.3 | 1982 | ★ |
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アクチーブの姿は、服装を見るとすぐに分かった。飛行服に長靴を履き将校帽を被るかソ連兵の戦闘帽を頭にのせ颯爽としていた。かつて一緒の中隊にいたO君はナホトカではアクチーブとして、帰国者に目を光らせていた。馴れ馴れしく近寄ることは禁物だった。
屈辱 | 72.8×60.6 | 1998 | ★ |
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シベリアの二冬を越したころ、影を潜めていたインテリゲンチャーたちの民主化運動により、日本軍将校たちの姿が消え、やがて思想教育を受けて来た主義者たちのオルグが始まった。思想教育が徹底したのは2年目の秋ごろからだったが、ナホトカで帰還兵を監視していた主義者たちは「反動は還すな」と息まき、逆送された者たちもいた。
22年最後の引き揚げ船「朝嵐丸」 | 145.5×112.1 | 1998 | ★ |
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シンガポールで爆撃を受けた「朝嵐丸」は佐世保港によって修理をしてくるはずだったが引揚者の待つナホトカに直行してきた。船尾には日の丸の旗はなく、赤さびた船体は痛々しかった。日本人船員たちはきびきびと動き回っていたが、大陸からの風に岸壁に着けることができず、みぞれの中での綱引きが始まった。
義眼剥ぐ | 91.0×72.8 | 1995 | ★ |
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兵隊には義眼の兵士はいないはずだが、現地召集された兵士のなかに義眼の兵士がいた。それは遺骨の収集のときに義眼の入った髑髏が見つけられたからであった。
生き残りし者達 | 145.5×112.1 | 1998 | ☆ |
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終戦まぎわに、補充兵として現地召集された者に犠牲者は多かった。それに作業大隊のノルマをこなし、結核や事故などよって亡くなる者が少なくなかった。
生き残った者の多くは収容所内に必要な仕事をもつ者たち、軍医、通訳、カントーラ(ノルマの計算者)炊事、芸能者、楽団員、肖像画家、それに主義者たちであった。
今昔物語 | 116.7×90.9 | 1999 | ☆ |
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冬には遺骨の収集は出来ない。したがって、シベリアの遺骨収集団は緑滴る夏に出かけることになる。しかし、日本兵のものかロシアの囚人のものか分かない膨大な数の髑髏を集め火葬にする写真を見せられることになる。日本兵の髑髏のなかに義眼剥く髑髏を見つけた話を聞くと、かつてのわれらの姿と重なり今昔の思いが募るのである。